MBTI(性格診断テスト)が流行っていた頃、私は韓国語と日本語の両方でテストを受けたことがあります。しかし、驚いたことに、結果は全く異なるものでした。この違いは単なる言語の問題ではなく、日本語で話すときの自分が、より受動的で、自己主張を控えめにする傾向があるからだと思います。おそらく、日本特有の社会的雰囲気が私の行動や言動に影響を与えているのでしょう。日本での長い生活の中で、私自身もこの文化に慣れ、知らず知らずのうちに同化している自分に気づきました。
今日もその「日本らしい瞬間」を経験しました。電車に乗りながらニュースを見ていて、ふと隣に座っていた外国人女性が急に立ち上がりました。最初は降りる準備をしているのかと思いましたが、彼女は立っているおばあさんに席を譲ったのです。日本の若者でさえあまり見かけないこの行動を、外国人女性が自然に行った姿に、深く感銘を受けました。他の国であれば特に驚かなかったかもしれませんが、今の日本では珍しい光景に感じました。
実際、日本では若い世代が優先席ですら譲らないことをよく見かけます。しかし、この外国人女性が見せた配慮ある行動は、私に「しまった」と思わせました。「私ももっと注意を払うべきだったのではないか?」と。もちろん、私が座っていたのは優先席ではありませんでしたが、それでもあの瞬間、自分の選択について考えさせられました。
日本の社会には、多くの外国人を含め、人々の態度や行動を変える不思議な力があるようです。普段はそれほど礼儀や配慮を気にしなさそうな外国人でも、日本に来ると、頭を下げて丁寧に挨拶する姿をよく目にします。こうした行動は、日本社会が生み出した暗黙の規範や圧力の結果なのだと思います。このような雰囲気が時には息苦しく感じられることもあります。何事も規則や礼儀に縛られているような感覚のためです。しかし同時に、この社会的な雰囲気が外面的には安定感をもたらしていることも否定できません。少なくとも公共の場で迷惑な行動を取る人をほとんど見かけない点でそう感じます。もちろん、オンラインでは事情が異なるかもしれませんが、少なくとも目に見える場所では不快な思いをする機会が少ないのです。
今日、その外国人女性の姿を見て、日本社会の複雑で微妙な魅力を再び感じました。この息苦しさと快適さが共存する社会規範の中で、私自身も少しずつ慣れ、気づけば私もこの文化に染まっていることに気づきます。そして今日のような些細な瞬間の中でも、反省し、学び続けられることが、この日本社会の良さを象徴しているのかもしれません。
ソン ウォンソ
秀明大学学校教師学部専任講師
