日本の外交の現場では、天皇陛下や首相、皇族の隣で静かに言葉を伝える人物がいる。目立たない存在だが、国家の意思を相手国に伝える重要な役割を担う外務省の通訳だ。
ブラジルの日本大使館に勤務する柴田道子氏は、2022年から2025年まで外務省本省で皇室や政府要人の通訳を担当した。天皇陛下、秋篠宮家の次女佳子さま、岸田文雄元首相、石破茂前首相などの外交の場で通訳を務めてきた。
外交通訳は通常、発言者が数フレーズ話した後に区切り、その内容を正確に伝える逐次通訳の形式で行われる。首脳会談だけでなく、レセプションや晩餐会、会議の合間の会話など、多様な場面で求められる。
通訳の理想は「存在を感じさせないこと」だと柴田氏は語る。言葉に詰まったり間が空いたりすれば、会話の流れが途切れてしまう。あくまで主役は要人であり、通訳は円滑なコミュニケーションを支える裏方に徹する必要がある。
外務省では通訳専任の職員はおらず、通常業務をこなしながら必要に応じて通訳を担当する。予定外の依頼が突然来ることもあり、常に準備が求められる。
通訳にとって最も重要なのは事前準備だ。柴田氏は三つの準備を挙げる。
一つ目は会談に参加する双方の人物のプロフィールを徹底的に調べること。SNSの発言、経歴、出身地、趣味などを把握しておくことで、雑談や背景の話題にも対応できる。
二つ目は会談テーマの理解だ。外交会談では議題が事前に調整されており、通訳は担当官の資料を読み込んで内容を完全に把握しておく必要がある。条約、動植物、スポーツなど専門外の分野が突然話題になることも珍しくない。
三つ目は現場の動線やスケジュールの確認だ。会場の場所、座席配置、移動ルートなどを把握していなければ、通訳として必要なタイミングで現場に立てない。柴田氏は海外訪問で通信手段を奪われ、会談直前に会場を探し回る経験をしたことがあり、現場把握の重要性を痛感したという。
外交の言葉には独特の表現も多い。「遺憾であります」「緊密に連携して」「善処してまいります」といった日本特有の言い回しだ。外務省には公式マニュアルはなく、通訳は経験をもとに適切な訳語を選ぶ。
通訳が伝えるのは言葉だけではない。話し手の感情や場の空気も含まれる。抗議の場面では毅然とした口調で訳し、弔意や祝意の場面では相応のトーンで伝える。言葉の背後にある意図や温度を再現することが求められる。
一方で、慣用句やことわざは通訳泣かせだ。「蛙の子は蛙」のような表現が出ると、同じ意味の言葉を瞬時に見つけなければならない。柴田氏はポルトガル語で「魚の子は魚」という類似表現を思い出し、乗り切った経験があるという。
多くの外交現場を経験してきた柴田氏は、日本のトップリーダーの姿勢にも触れてきた。岸田文雄元首相は会談時間が急に短縮されても要点を整理して話をまとめる能力が際立っていた。石破茂前首相はアフリカ首脳との連続会談で相手国に関連する小物をテーブルに置くなど、雰囲気づくりに細やかな配慮を見せた。
また佳子さまのブラジル訪問では、分厚い資料に目を通し、現地の人々に伝わりやすい言葉を検討する姿勢が印象に残ったという。
柴田氏は通訳を「車の鍵穴」に例える。鍵穴は小さな部品だが、それがなければエンジンはかからない。外交に関わる多数の人々の中で、通訳もまた欠かせない存在だという。
通訳に必要な資質として挙げるのは好奇心だ。外交の現場では突然未知の分野が話題になる。サッカーの名選手ジーコと会う場では、一晩でルールを学んだこともあった。
現在、柴田氏はブラジルの日本大使館で経済分野を担当している。農業や重要鉱物など、日本との経済関係が深まるブラジルとの協力強化に取り組むとともに、日本や故郷新潟の魅力を発信する役割も担っている。
言葉で日本と世界をつなぐ。外務省通訳は、外交の最前線で静かにその役割を果たしている。
