[コラム] AI時代、大学の意義を問い直す

an artificial intelligence illustration on the wall

先日、YouTubeにアップロードした私の地理学講義をAI要約サイトに入れてみた。すると、わずか10秒もかからないうちに、英語や日本語を含む複数言語の要約が瞬く間に出来上がった。そのあまりの速さと便利さを目の当たりにし、“まるで学習の必殺技が現れたようだ”と衝撃を受けた。これは同時に、現在の大学教育、さらには教授という職自体の本質への疑問につながった。

SNSやインターネットを少し覗いてみれば、大学生がいかに簡単な要約ツールやAIを活用して「効率的」に授業を受け、高い成績を得ているかという動画があふれている。いわゆる“チートキー”を使って短時間で必要な情報を得る方法が公然と共有され、楽しみの材料にさえなっている現状を目にすれば、「そもそも最初から最後まで授業をきちんと受ける必要があるのか?」という問いが学生にとって決して他人事ではなくなっているのも頷ける。

忙しい日常で効率を重視するのは当然のことかもしれない。しかし、大学教育が“知識の伝達”だけを目的としているとは言い切れない。教授のノウハウや研究経験を通じて身につく思考プロセスや、互いに意見を交わしながら得られる洞察、さらに学問共同体としての連帯感――それこそが大学という教育機関がもつ独自の価値である。1枚の要約資料は膨大な知識を短時間でまとめてくれる便利さを提供するが、深い思考や学びの「体験」を代替することは決してできない。

では、この時代に大学教授は何をすべきなのだろうか。結論から言うと、“知識の伝達者”ではなく、“学習のナビゲーター”としての役割を再定義する必要がある。単なる情報を教室で一方的に伝えるだけの時代は、すでに終わりを迎えている。教授は学生が要約ツールやAIを活用しても、そこからより深みのある学習へとつなげられるような“問い”や“議論”を設計しなければならない。つまり、一人ひとりの思考を刺激し、さまざまな視点を交換できる授業の環境を整えることが求められるのだ。

すでに世界の有名大学の多くは、知識の伝達型講義から離れ、プロジェクト型やディスカッション型、体験型学習へとシフトしている。オンラインで容易に手に入る知識を、わざわざ教室に呼び込まず、むしろ学生たちが自ら課題に直面し、その解決策を見いだす過程を重視する。発表や討論を通じて学問的示唆を引き出すのだ。これは教授にとって多大な“労力”を要するが、それに見合うだけの“真の学び”の喜びを学生に提供できるという大きな利点がある。

私たちが直面している変化は、AIが主導する大きな波である。教授や学生の両方にとって有用なツールになることは確かだが、それが学校教育そのものを置き換えられるかどうかは、改めて考えるべき問題だ。大学での学びは単なる成果物を得るための過程ではなく、人間同士の交流や多様な思考を体験するための旅路でもあるからだ。

知識がAIによって圧縮される時代が到来したという事実は否定できない。しかし、教授と学生が共に作り上げる教室での“経験的価値”は、一枚の要約で代替できるのだろうか。大学教育は知識を伝達するだけにとどまらず、その知識をどう活用し、どう発展させていくか、さらにどのように社会で生かしていくかを模索するプロセス全体を含む。

“チートキー”のような便利な手段があふれるからこそ、大学はむしろより深い学びの機会を提供する必要がある。教授としての不安は消えないが、その不安をチャンスととらえ、私たちが新たな学習パラダイムを共に模索していくことで、大学は今後も意味を持ち続けるだろう。要約では得られないもの、要約できないからこそかけがえのないものを見つけることこそが、現代の教授と学生に課された重要な課題であり使命なのである。

ソン ウォンソ (Ph.D.)
秀明大学学校教師学部 専任講師
早稲田大学教育学部 非常勤講師
東京大学空間情報科学研究センター 客員研究員

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