幼いころの記憶をたどると、小学校の校庭の片隅で、小さくてかわいらしい賞状をまるで宝物のように手にして、満面の笑みを浮かべていた自分の姿を思い出す。「ゴミアン運動」と呼ばれていたそのキャンペーンは、生徒に挨拶や「ありがとうございます」「ごめんなさい」「こんにちは」を習慣的に実践させるための小さな仕掛けだった。褒められたい一心で努力したものの、その根底には人と人とを結ぶ基本的な礼儀と思いやりの大切さが込められていたのだと、今になって気づく。
当時は「ゴミアン(고맙습니다、미안합니다、안녕하세요)」という言葉自体も珍しく、小学校独自の特別活動かと思っていたが、何十年も経った今、試験の点数や進学競争よりもはるかに重要な学びを与えていたのではないかと痛感する。現代社会では、忙しさや気まずさを理由に感謝や謝罪、そして温かい挨拶を口にすることをためらう人が増えているように感じる。家族同士でさえ「ありがとう」と言い合わないことも珍しくなく、友人間でも傷つけ合っても「ごめん」と言いそびれる場面は多い。
そんな現状の中、今、自分が勤めるシュメイ大学で毎朝行われている「登校指導」を見ていると、かつての「ゴミアン運動」を思い出さずにはいられない。スクールバスから降りてくる学生を教職員が校舎の入り口で出迎え、大きな声で「おはようございます(안녕하세요)!」と声を掛けるのだ。初めて見る教授にも学生が遠慮なく「안녕하세요」と挨拶する光景は、まるで百貨店が開店するときに店員がずらりと並ぶようで、やや古風にも映る。しかし、こうしたやり取りの中にこそ人と人との温かいつながりが息づいていると感じる。
実際、「ありがとう」という小さな言葉には、思った以上に大きな幸福感が宿る。言葉にして初めて相手は「感謝されているのだな」と実感できるし、「ごめん」と伝えることで関係が元に戻ることもある。また、「こんにちは」「おはよう」といった気さくな挨拶が、見知らぬ人との距離を一気に縮めるきっかけにもなる。ところが急激に都市化が進む現代では、隣に誰が住んでいるのかもわからず、職場では互いを評価や比較の対象として見ることが多くなり、人と人との基本的な礼儀や思いやりが薄れつつあるのではないか。
そこで改めて思い出したいのが「ゴミアン運動」の本質だ。大げさな教育制度や複雑なカリキュラム以上に、日々の生活の中で交わす小さな礼儀と親切こそが本当に大事なのではないか。昔、小さな賞状を何枚も集めるとさらに大きな賞状に交換できたあの仕組みは、「ありがとうございます」「ごめんなさい」「こんにちは」といった言葉が、いつの時代でも人間関係の根本であり続けることを示していたのだと思う。絶えない不満や比較に疲れ果てている現代人こそ、感謝や謝罪、そして明るい挨拶を武器に、もう少し心に潤いを取り戻してみてはどうだろう。
「ゴミアン運動」が示した教えは、一生をかけて実践していくべき人間らしい徳目だ。いつでもどこでも「ありがとうございます」「ごめんなさい」「こんにちは」が当たり前に交わされる社会こそ、私たちの心を温め、互いに支え合う本当の“コミュニティ”を築いてくれるはずだ。過去の小さな賞状が象徴していたこの価値を、もう一度思い出してみたいと思う。
ソン ウォンソ(Wonsuh Song, Ph.D.)
秀明大学 専任講師 / NKNGO Forum 代表
