先日、東京マラソンが開催され、世界中のランナーたちで都心がにぎわった。大通りが封鎖され、多彩な人々が一斉に走り出す光景は圧巻そのものだ。以前、私が東京マラソンを沿道で観戦したときのことを思い出す。とくに先頭集団のランナーたちは驚くほどスピードが速く、細身で足の長いアフリカ系選手が軽々と大きなストライドで駆け抜けていく姿に息をのんだ。足の回転も驚くほど速く、一歩一歩がまるで跳ぶように軽快で、見ているこちらまで目がくらむほどだった。
彼らが視界から消えた頃、しばらくして一般ランナーの大集団が続々とやってきた。フォームは先頭集団とはまるで違い、短い歩幅でゆっくり走る人もいれば、途中で歩いてしまう人もいる。コースは同じでも、身体能力や持久力、そして取り組み方には大きな差がある。実際に目の前でそんな走りの違いを目撃すると、人間の“生まれつきの条件”や“努力の度合い”がいかに人生を分かつかを、改めて強く感じさせられた。
しかし、だからといって「能力が高い人だけが意味を持つ」わけではないのだと、マラソンは教えてくれる。先頭集団に追いつけなくても、それぞれのペースで走り抜く人たちがいる。そのゴールへの執念や粘りは見ているだけでも胸が熱くなる。マラソンでは全員が「自分自身との闘い」をしている。トップ選手は2時間台でゴールに飛び込む一方、多くの一般ランナーは4時間以内を目標にする人もいれば、とにかく完走できればいいという人もいる。ゴールするタイミングは違っても、全員にドラマがあり、それぞれの人生が凝縮されているように感じる。
よく「一人当たりのGDPが2万ドルを超えると、その国ではマラソン人口が急増する」と言われる。ある程度生活に余裕が生まれ、健康への関心が高まると、マラソンのような長距離競技に挑戦する層が増えるのだろう。実際、韓国でもマラソン大会が年々増え、出場者数も右肩上がりだ。私自身もこれまでに10回以上マラソン大会に参加してきたが、スタートラインに立つときのあの独特の高揚感と、周囲のランナーたちとの一体感は何度味わっても特別なものがある。世界最高峰のランナーと同じコースを走るだけでも、不思議と心が奮い立つのだ。
実は走っていなくても、大会を沿道で見守るだけでも多くを学べる。何万人ものランナーが街を駆け抜け、その熱気が周囲の観衆にも伝わってくる。沿道からの声援や拍手は、まるで巨大なお祭りのような連帯感を生み出す。交通規制による不便さを嘆く声もあるが、一方でこうした大規模イベントを通じて市民同士がつながりを感じられるのは、なかなか貴重な機会でもある。街全体が巨大なスタジアムへと変わり、そこかしこで「諦めない気持ち」や「挑戦する楽しさ」が共有されているのを感じる。
もちろん個人の身体能力やトレーニング状況の差は大きい。長い脚でスイスイと走れる人もいれば、ゆっくりと一歩ずつ進む人もいる。それでも皆が同じコースを走る、という点にマラソンの本質がある。序盤に飛ばしすぎて後半にペースが崩れたり、逆にゆっくりスタートして最後に追い上げたりと、攻略法はさまざまだ。こうした駆け引きは、人生における計画やペース配分にも通じるところがあるだろう。
もし一度もマラソン大会に参加したことがないなら、5kmや10kmなどの短めの種目にチャレンジしてみるのもいい。仮に走る自信がなくても、沿道で応援するだけで、自分の中にある感情が揺さぶられる瞬間がきっとあるはずだ。日常では味わえない活気と達成感、それらに触れることで、忙しさに追われる生活の中でも新たな活力を得ることができるだろう。
マラソンは、「すぐに結果が出る」スポーツではない。地道なトレーニングと計画的な準備が必要で、完走をめざすには粘り強さが欠かせない。たとえ誰かより大きく遅れてしまっても、ゴールをめざして走り続けた人たちには惜しみない拍手が送られる。結局、マラソンで大切なのは「いつフィニッシュするか」より、「最後まで諦めずに走り抜いたか」だといえる。
こうした意味で、マラソン大会は健康づくりのイベントであると同時に、私たちが人生の姿勢を見直すきっかけにもなる。生まれつきの身体能力には差があるのは事実だが、それでも自分なりの限界に挑み続ける人たちの姿は尊敬に値する。これからも全国規模でマラソン文化が根づき、多くの人々がこのスポーツを通じて挑戦と連帯の喜びを味わえるようになることを願ってやまない。そして、その道を走る全てのランナーが、それぞれのペースとスタイルで“自分だけのゴール”にたどり着く瞬間を得られることを、心から応援したい。
ソン ウォンソ (Ph.D.)
秀明大学学校教師学部 専任講師
NKNGO Forum 代表
